きまぐれゲーム&ライフ

ゲームについて思うことをつぶやいてますです。

完成しなかったゲームが私にくれたもの

「ゲームを作ろう。」そう思い立ってゲーム制作を始めて数か月、結論から言うとゲームは完成することはなかった。また、今後も完成することはないだろう。私は生み出す側の人間ではなかったのである。

 

事の始まりはPanic社が新作ゲームハードplaydateを発表したところである。特徴的なクランクがついたモノクロ液晶の携帯ゲーム機を任天堂でもSONYでもMicrosoftでもないPanic社が発表したのである。私は衝撃を受けた。聞いたこともない企業がモノクロ液晶で謎のクランクがついていて、コンセプトが「ゲーム&ウオッチの次世代機」という尖りに尖ったアイテムを発表したからだ。さらには自分で作ったゲームをダウンロードして遊んだり、配布することができる機能を標準装備しているという。自前でゲームエンジンまで用意し、ゲーム制作初心者でも簡単にゲームが作れるplaydate pulp、中~上級者向けの本格的な制作ツールであるplaydate SDKまで用意する徹底ぶり。私はゲーム制作に興味を抱かずにはいられなかった。

 

早速、ゲーム制作について調べて始める。pulpのほうは初心者用にあらゆるものが簡略化されており、作り方を理解するのは難しくはなかった。プログラミングの知識は全くなかったが、plupで使用されるlua言語はプログラム言語としてはそう難しくなく、簡単な読み書き程度であれば習得するのにそう時間はかからなかった。

 

ある程度の技術とツールの使い方を覚え、自分で作成可能な範囲でのシステムを考えゲームを作り始めたが、ここで大きな壁にぶつかることとなる。

 

ゲーム制作が思っていたよりも楽しくないのである。私が作っていたゲームは薬草を指定された数採取し、協会に納品するというRPGの序盤にあるお使いクエストそのままの物である。スクリプトは簡単に組めた。マップもマップチップですぐに作れた。キャラクターも最低限のドット数で早々に仕上げた。あとは組み上げて完成であった。しかし、どの段階でも楽しさを見出すことはできず私の手は完成目前にして完全に止まってしまった。

 

なぜ作り切れなかったのか。理由は簡単だった。それが作りたいゲームではなかったから。いや、そもそも私に作りたいゲームなど初めからなかったのだ。

 

思えば、私には何かを生み出すセンスがないことは幼いころから知ってはいた。絵にしろ、彫刻にしろ他者と比較したときに発想があまりに安易であり、他者と比較するたびに自身のセンスのなさを痛感していた。努力をする才能を含め、私には制作の才能はないと。

 

ただ、今回のゲーム制作の挑戦は全くの無駄ではなかった。ゲーム制作を通して気が付くことがたくさんあった。普段何気なくプレイしているゲームの裏にある製作者の努力である。

 

ドット絵はドットの数、色の数が少ないほど難しい。8×8のモノクロドットでキャラクター表現は至難の業だ。UIやどのゲームにも実装されているようなシステムでも実装するとなると高度な技術が必要であること。オンライン機能が実装されているゲームってすごい。広大なフィールドを手作業で作るなんてどれだけ時間があっても足りない。個人製作者は化け物である。

 

いままで気にも留めていなかったゲームを構成する要素にゲーム制作者の努力が見えるようになった。ゲームに対しての視点の解像度が上がったとでもいうのだろうか。本当にゲーム制作をしている方の足元にも及ばないし、まだまだ見えていないこともあるだろうが、依然と比較すると格段に作品と製作者に対する感謝と敬意をもってプレイするようになったと感じる。

 

私は生み出す側の人間ではなかった。しかし、ゲームは大好きである。そのゲームに対しての理解が今以上に深まり、より愛せるようになった。私はこれからも消費者であり続けるだろう。私はゲームを愛するものとして作品と製作者にとって良い消費者であり続けたいと思う。そう思わせてくれたのはこのゲーム制作の挑戦のおかげである。完成しなかったゲームに申し訳なさと感謝の気持ちを抱きつつ、この記事をもって供養することとする。